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偉人列伝

第17回 川又克二(1905年―1986年)

川又克二  日産自動車とプリンス自動車との合併を成功に導き、日産自動車を日本第2位の自動車メーカーへと成長させた「中興の祖」。16年間にわたって社長、会長を務めた。日産の名車「ブルーバード」「セドリック」「フェアレディ」の名付け親でもあった。  茨城県水戸市生まれ。1929年旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、同年日本興業銀行に入行。融資事業部長、広島支店長等を経て、47年に労働争議で疲弊していた日産へ常務として派遣され、経営再建のために、辣腕を振るった。また53年春に勃発した「日産百日争議」では、強硬な労働組合に対抗するために第2労働組合結成を背後で支援。この新組合のリーダーが塩路一郎氏であった。  57年、川又氏は社長に就任、一方の塩路氏は62年に日産労働組合委員長に就いた。労使蜜月時代を経て、塩路氏は後に労組をバックに経営へ介入するまでの権力を持ち、石原俊社長時代にはしばしば社内で不協和音が噴出した。  67年日本自動車工業会初代会長に就任し、自動車業界の国際競争力強化のために資本自由化を遅らせるなど、今日の自動車産業発展の基礎を固めた。72年経団連副会長に就任し、財界における自動車産業の地位を確立し、80年に日経連副会長を務めた。晩年は経団連会長の有力候補ともなった。62年藍綬褒章受章、75年勲一等瑞宝章受章。 (肩書は当時)

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川又克二 座間工場の見学に訪れた英国保守党党首のサッチャー夫人を出迎える(1977年) 自宅の庭で植木の手入れに精を出す(1975年) 講演に熱心に耳を傾ける。左は越後正一・伊藤忠商事会長(1975年)
「年を取って、仏心が出てきたんだよ(笑)」。左は本誌主幹の佐藤正忠 3年越しでようやく決定した英国進出の記者会見で(1984年) 「生まれて初めてだよ」と笑いながら
フォークダンスに興じる(1973年) 永野重雄・新日本製鉄会長と談笑(1971年)
川又氏の歴史は、自動車産業が繰り広げてきた〝ドラマ〟そのものだった(写真右ははる子夫人、1975年)