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偉人列伝

第27回 斎藤英四郎(1911年―2002年)

斉藤英四郎  新日本製鉄社長、会長を務め、第6代経団連会長として、日米貿易摩擦の解消に尽力した。また「積極的で開かれた経団連」を目指し、企業のグローバル化を先導した。  新潟県北蒲原郡安田町(現・阿賀野市)生まれ、1935年東京大学経済学部を卒業後、同年三菱鉱業(現三菱マテリアル)へ入社。41年に日本製鉄(現新日本製鉄)に移り、50年に同社が八幡製鉄と富士製鉄に分割された後は八幡製鉄に身を置いた。  70年に八幡、富士の合併で新日本製鉄が誕生するとともに、専務に就任。77年に田坂輝敬社長の急逝に伴い副社長から社長に昇格した。 「7割操業で採算維持」を掲げ、抜本的な企業構造改革に踏み切った。  86年、新日鉄の先輩である稲山嘉寛氏の後を継いで経団連の会長に就任する。しかし新日鉄から2代続けて会長を出すことには財界から異論も多く出され、平岩外四・東京電力会長(第7代経団連会長)を推薦する声も多かった。  経団連会長時代は、「世界の経団連」を目指し、頻繁に外国を訪問、毎年10回ほどの海外出張を精力的にこなした。また経団連に集団指導体制を持ち込み、国際化時代に相応しい新しい組織につくり上げた。 「明るさを見て暗さを見ず」をモットーに自他共に認める「ネアカ人間」として多くの政財界人から親しまれた。財界の第一線から退いた後は、大阪市で開かれた「国際花と緑の博覧会」協会の会長や長野五輪組織委員長などを務めた。  1990年勲一等旭日大綬章受章。 (肩書は当時)

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斉藤英四郎 平岩外四・東京電力社長(左)、村上武雄・東京瓦斯社長(中央)と3人でゴルフを楽しむ(1977年) 真藤恒・日本電信電話社長と(1986年) 「みんなが楽しくなるようにするのが私の哲学です」。聞き手は本誌主幹の佐藤正忠(1984年)
「山陽特殊製鋼の大内俊司社長の奮戦を祝う会」にて、石原俊・経済同友会代表幹事と(1986年) 平岩外四氏と2ショット パーティーでは自然と斎藤氏の周囲に人が集まり、常に笑いが絶えなかった。左から三宅重光・東海銀行会長、鹿内信隆・サンケイ新聞社長、斎藤氏、越後正一・伊藤忠商事会長、小山五郎・三井銀行会長(1977年) 豪快で明るく、周囲を楽しくさせる〝ネアカ〟経営者だった