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偉人列伝

第30回 石原 俊(1912年―2003年)

石原 俊 「トヨタに追い付け追い越せ」のスローガンを掲げ「攻めの石原」と畏怖され、日産自動車の社長、会長を歴任してわが国自動車産業の国際化の先鞭をつけた。後に経済同友会代表幹事として「開かれた、行動する集団」を標榜した。
 東京都生まれ。1937年東北大学法学部卒業後、日産自動車に入社。主に経理、営業畑を歩み54年に取締役。60年米国日産の初代社長に就き、米国での日本車販売の先頭に立った。
 専務、副社長時代には銀行出身の川又克二社長を補佐、77年に岩越忠恕氏の後をうけて社長に就任した。世界市場でシェア10%乗せを目指す「グローバル10」戦略を策定、80年代に入ると業界に先駆けて英国工場進出を決めるなど、米国、英国、スペインなどでの現地化にまい進した。
 しかし日産には、経営戦略や役員人事にも介入するほどの権力を持った塩路一郎・自動車総連委員長がいた。塩路氏は英国進出に否定的で、石原氏との対立が先鋭化した。労使間のしこりは後の業績悪化の伏線となった。85年に久米豊氏を社長に指名して会長に就任。“労働貴族”と、社内からの批判も噴出した塩路氏がすべての役職を退いたのは86年のことである。
 日本自動車工業会会長として、対米輸出自主規制問題に取り組んだ。85年に経済同友会代表幹事に就任すると、リクルート事件に揺れる竹下登首相へ「退陣勧告」をするなど、歯に衣着せぬ「財界の論客」でもあった。
 無類のスポーツ好きで、特に野球、サッカーの振興に尽力し、2002年サッカーワールドカップ日本招致委員会会長を務めた。
 1991年勲一等旭日大綬章受章。
(肩書は当時)

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石原 俊 趣味は学生時代に覚えた囲碁。一手一手ゆっくり考え、静かに打つタイプ(1986年) 「学生時代はラグビーに明け暮れる毎日で、あまり勉強はしませんでしたね」。聞き手は本誌主幹の佐藤正忠(1976年) 「ニッサンカップ世界選手権」で優勝したラニー・ワドキンスを祝福(1984年)
第26回東京モーターショーで、自工会会長として皇太子殿下(当時)を案内する。右端は久米豊・日産自動車社長(1985年) スペイン自動車産業の発展に寄与したとしてスペイン国王から「大十字勲章」を授かる。授与式で静子夫人と記念撮影(1985年) 第55回都市対抗野球で初優勝した野球部の選手たちをねぎらう(1984年) 「石原同友会」を支える副代表幹事らと。左から関本忠弘・日本電気社長、田淵節也・野村証券社長、石川六郎・鹿島建設会長、石原氏、坪井東・三井不動産社長、河合三良・国際開発センター理事長(1985年)
“3年連続3大タイトル制覇”の偉業を達成した女子卓球部の部員たちと(1984年) ライバルだったトヨタ自動車の豊田章一郎社長と