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偉人列伝

第34回 大屋晋三(1894年―1980年)

大屋晋三  帝人の社長として、人造絹糸レーヨンで同社が築き上げた一大帝国の崩壊で、経営危機に陥った同社の窮地を救い、世界有数の総合化学メーカーに育て上げた。
 群馬県佐貫村(現・邑楽郡明和町)生まれ。1918年東京商科大学(現・一橋大学)卒業後、鈴木商店に入社し、25年関連会社だった帝人の前身、帝国人造絹絲に派遣され45年社長に就任した。
 47年民主自由党から参議院議員選挙に当選し政界へ進出、翌年吉田内閣の商工大臣に就任し社長の座を退いた後、大蔵大臣、運輸大臣を歴任し、56年経営危機に喘いでいた帝人の社長に復帰した。
 同社は戦時中までレーヨンの生産量で世界最大を誇る有数の繊維メーカーであったが、戦後、合成繊維ナイロン技術の普及で、他社が合成繊維を商品化し、化繊を含む総合化学メーカーへと移行しようという時代の流れから取り残され、帝人の「レーヨン帝国」の終焉を迎えた。
 同社再建のため社長に復帰した大屋氏は、世界の化繊メーカーを視察し、「化繊界の将来を制するものはポリエステル繊維」と確信した。ポリエステル繊維製造技術を英国のICI社から導入し、商品名を「テトロン」と命名、58年に生産を開始し、同社はようやく再建の体制を整えた。その後は世界一のポリエステル繊維メーカーとして、再び一大帝国を築き上げた。
 テトロン成功後にさまざまな事業に着手して多角化経営を開始したが、医薬品事業以外はことごとく失敗、再び未曾有の赤字を計上し凋落の一途を辿った。80年に社長のまま他界するまで多角化から手を引くことはなかった。
 同社の最高権力者として27年間君臨したが、政権末期には経営能力の低下に加え、政子夫人の経営介入など、ワンマン経営の弊害が噴出した。
 1971年勲一等瑞宝章受章。 (肩書は当時)

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大屋晋三 日米繊維交渉の政府間協定に反対し、先頭に立ってデモ行進(1971年) 「中途半端で経営しているんじゃ、どんな種類の仕事だってうまくいくわけがない」。聞き手は本誌主幹の佐藤正忠 夫人の政子さんが招致した国立モスクワ芸術劇場バレエ団の日本公演会場にて。左は歌舞伎役者の市川海老蔵氏(1974年)
自宅の庭で政子夫人と バレリーナに囲まれて思わずニッコリ(1976年) 世間の老害批判をものともせず、自らの信念を貫き通した経営者だった