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偉人列伝

第41回 稲山嘉寛(1904年―1987年)

稲山嘉寛 「鉄は国家なり」「鉄は産業のコメ」という稲山哲学の下、1970年に八幡製鉄所の社長として、富士製鉄所との合併を実現させ、新日本製鉄の初代社長に就任した。富士の社長から新日鉄の会長となった永野重雄氏とともに同社を世界一の鉄鋼メーカーに育て上げた立役者である。
 優れたバランス感覚と調整能力が評価され、土光敏夫氏(東芝会長)の後を継いで、第5代経団連会長に就任し、経済成長に陰りが見えた日本経済の再生のために「競争より協調を」の精神で取り組み、「ミスターカルテル」との異名を取った。
 東京都生まれ。27年東京大学経済学部商業学科卒業後、商工省製鉄所(通称・官営八幡製鉄所、34年の製鉄大合同で日本製鉄)に入所した。38年日本製鉄第4販売課長。戦時中は鉄の増産、配給などを担当する鉄鋼統制会に出向し、戦後、日鉄本社の営業部次長に復帰した。
 50年、連合軍総司令部(GHQ)の指令により日鉄が八幡製鉄と富士製鉄に分割され、八幡製鉄の常務取締役兼営業本部長を経て、62年に社長。
 68年、日鉄時代の上司だった富士製鉄の永野重雄社長とともに、過当競争解消のために旧日鉄の復活を目指し、公正取引委員会との粘り強い折衝を開始。それが奏功して、70年に八幡・富士の大合併が実現した。73年に会長、81年には取締役名誉会長に退いたが、終生、鉄鋼業界の指導的立場にあった。
 本業以外では早くから民間レベルでの日中経済交流に尽力し、72年に日中経済交流の窓口となる日中経済協会初代会長に就き、78年には、日中長期貿易取り決め調印にこぎ着けた。
 経団連副会長、日経連副会長を経て、80年に経団連会長に就任。日米経済摩擦などの難問に対しては持論の「我慢の哲学」を発揮して、自動車・VTR等の輸出自主規制を指導した。81年の第二臨時行政調査会スタートに際しては、財界の「5人委員会」の代表として「増税なき財政再建」を訴えて、行政改革や財政再建に奮闘した。
 86年に後任の経団連会長を同じ新日鉄の齋藤英四郎氏に譲った時は、財界ポストの私物化と、批判も浴びた。
 趣味の常磐津、小唄は玄人はだし。麻雀好きも有名で、生粋の江戸っ子として生涯洒脱で恬淡としたところを失わなかった。
 82年勲一等旭日大綬章受章。(肩書は当時)

フォトギャラリー

稲山嘉寛 鈴木治雄・昭和電工社長の個展で、鈴木氏の作品に見入る(1983年) 大阪で開かれた国際鉄鋼協会年次総会で講演(1976年) 日本たばこ産業の発足パーティーでは、案内嬢の持っていた“花かざり”を手にする茶目っ気ぶりで、長岡實社長(写真左)の門出を祝う(1985年)
本誌主幹・佐藤正忠のインタビューに答える 名誉理事長を務めたザ ナショナル カントリー倶楽部のオープニングパーティーで乾杯の音頭を取る(1985年) 大内俊司・新日本製鉄副社長の出版記念パーティーで挨拶(1977年) 真藤恒・日本電信電話社長と(1986年)