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偉人列伝

第22回 田淵節也(1923年―2008年)

田淵節也  野村証券(現野村ホールディングス)社長、会長を務め「証券界のドン」と呼ばれ、同社を「世界のノムラ」へと飛躍させた。また、産業界から格下に見られていた証券業界の地位向上に貢献し、業界としては初めて経団連副会長に起用された。しかし、1990年代に表面化した2度の証券不祥事で失脚するという「栄光と挫折」の人生だった。  岡山県津山市生まれ。47年京都大学法学部卒業後、同年野村証券へ入社。事業法人部門を中心に主に営業畑を歩み、常務、専務、副社長を経て78年、当時では異例の54歳の若さで社長に就任。「キープヤング」を体現した人事で、その若さとバイタリティーで同社の国際部門を飛躍的に伸ばし、「ガリバー」と称されるほどの巨大証券会社へと導いた。85年に(姻戚関係のない)田淵義久氏に社長の座を譲り、実力会長として君臨し、いわゆる「大タブ、小タブ」体制で時価発行増資のファイナンスを広く提唱、また中期国債ファンドも開発した。時代も良かった。バブル絶頂期の80年代末期にはトヨタなど有力企業を超えて経常利益で日本一になった。経営者としては名誉なことであるが、田淵氏は「このままでいいわけがない」と社内を引き締めた。  実際、絶頂からの転落も早かった。91年に大口顧客への損失補てんや広域暴力団との不透明な取引など一連の証券スキャンダルが発覚し、国会で証人喚問を受けた。95年、共に相談役を退いていた田淵義久氏と共に取締役に復帰したが、それもつかの間、97年の総会屋への利益供与事件で再び失脚の憂き目に遭った。時代に翻弄された人生だったが、証券業界に光を差し込んだ功績も高く、多くの人から慕われた経営者だった。 (肩書は当時)

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田淵節也 徳田博美氏(前列右)の商工中金副理事長就任を祝って開かれた会合にて。田淵氏(前列左)の隣は永野重雄・日本商工会議所会頭(1981年) 「うちの強みは“垣根”がないことです」。聞き手は本誌主幹の佐藤正忠(1983年) 会長を務めていた笹川平和財団が主催した「太平洋島嶼(しょ)国会議」にて(1988年)
牛尾治朗・ウシオ電機会長と(1992年) 三重野康・日本銀行総裁(前列右から3人目)を囲む会にて。田淵氏は後列左から2人目(1991年) 日中国交正常化20周年を記念して開かれた「新しい日中協力を創造する会議」で久しぶりに表舞台に登場。田淵氏は左から3人目(1992年) 飯田亮・セコム会長(左)、大川功・コンピューターサービス社長(右)と談笑(1986年)
「サントリーオープンアマプロ・チャリティー」の会場で一緒にラウンドしたプロボクシングの具志堅用高氏と(1981年)